東京地方裁判所 昭和35年(ワ)5814号 判決 1969年3月11日
原告 小崎勇
被告 国
代理人 平山勝信 外一名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事 実<省略>
理由
第一争いのない事実
原告が昭和二一年七月六日午前五時頃本件八丈島老女殺し事件につき山本勝との共犯容疑で八丈島警察署に連行され、同月二三日まで取調べを受け、同年八月二九日、山本勝とともに警視庁本庁留置場に身柄が移されるまで同署に留置されたこと、同日、東京刑事地方裁判所検事局検事が住居侵入強姦致死の罪名で同裁判所予審判事に対し、起訴前の強制処分として訊問ならびに勾留を請求し、翌三〇日、予審判事が原告ら両名に対し勾留訊問を行なつたうえ、勾留状を発し、東京拘置所に勾留したこと、同検事が同年九月六日、原告を、翌七日、山本勝を取り調べたうえ、同日、原告ら両名を原告事張のごとき公訴事実により予審請求をしたこと、同年一二月二七日、予審判事が公判に付する旨の決定をしたこと、昭和二三年一月二六日、第一審裁判所が別紙判決目録(一)記載のとおり有罪判決を下し、これに対し原告ら両名が控訴したが、昭和二六年六月二日、第二審裁判所において再び別紙判決目録(二)記載のとおり有罪判決を受け、上告した結果、昭和三二年七月一九日、最高裁判所第二小法廷において、「原判決を破毀する。被告人両名は無罪。」との判決を受け、同判決がその後確定したことはいずれも当事者間に争いがない。
第二警察官、検事、予審判事の行為について
原告は本訴において、上記の警察官の捜査、検事の予審請求および予審判事の公判に付する旨の決定はいずれも故意又は過失による違法行為であつて、これらの行為により損害を蒙つたので、第一次的に国家賠償法により、第二次的に民法七一五条により、被告国に対し、その損害の賠償を求めると主張する。しかしながら、
一、国家賠償法は、昭和二二年一〇月二七日法律第一二五号として公布され、即日施行されたが、同法附則第六項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と規定し、同法施行以前の行為に基づく損害については、同法によつてその賠償を請求することができない旨を明らかにしており、このことは、同法施行以前の行為が同法施行後の行為との間に因果関係をもつものであると否とにかかわりがないと解すべきところ、原告が違法であると主張する警察官、検事および予審判事の各行為がいずれも、同法施行前になされたものであることは前記当事者に争いのない事実に徴し明らかである。したがつて、これらの行為に基づく損害について国家賠償法によりその賠償を求める原告の第一次的請求は理由がないといわねばならない。
二、つぎに、国家賠償法施行以前の例をみるに、公務員の不法行為に基づく国又は公共団体の不法行為責任につき、権力的作用と非権力作用とを区別し、非権力作用に基づく損害については、判例により、漸次、私法の不法行為の規定の適用範囲を拡大し、国又は公共団体の責任を肯定する例が多くなつてきたが、権力作用に基づく損害については、特別の規定がない限り、私法の不法行為の規定は適用されないとして、国又は公共団体の賠償責任は否定されていたし、また、前示のごとき権力作用に属する行為について国の賠償責任を認める特別の規定は存在しなかつた。したがつて、前示のごとき権力作用に属する行為に基づく損害について民法七一五条によりその賠償を求める原告の第二次的請求もまた理由がないといわなければならない。
この点につき、原告は、右のようないわゆる国家無答責の理論は君主主権の立場に立つものであつて、わが国がポツダム宣言を受諾したことにより、もはや採用できなくなつていたと主張するが、ポツダム宣言の受諾が天皇制ないしは新憲法の制定にいかなる影響をもつかにかかわりなく、公法と私法の二元性が肯定される以上(この二元性は新憲法の下においても否定されるに至つたとは考えられない。)、わが国がポツダム宣言を受諾し、ないしは憲法一七条の規定が設けられたというだけの理由で、公権力の発動たる行為(権力的作用)に当然に私法の不法行為法の規定の適用が認められるに至つたと解するのは妥当ではなく、憲法一七条に基づき国又は公共団体の不法行為責任を定める法律、すなわち国家賠償法が制定施行されるまでは、国又は公共団体の賠償責任は認められないと解するのが相当とする。
第三第一、二審裁判所の各有罪判決について
一 違法性の有無
第一、二審裁判所は本件八丈島老女殺し事件について原告および山本勝を強姦致死の罪を犯した者としていずれも有罪判決をしたが、最高裁判所が「原判決を破毀する、被告人らはいずれも無罪」との判決をしたので、原告らは無罪が確定したことは前示のとおりである。
ところで、国家賠償法一条一項は、「国または公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意または過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国または公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と規定しており、特に裁判官の行なう裁判(民事、刑事を含む。)を除外していないから、裁判官の行なう裁判についても、国家賠償法の規定の適用があることはいうまでもないが、しかし、裁判官の行なう裁判については、特に法が当該裁判の違法を主張する者に対しその訴訟手続中に控訴、上告等の不服申立てさらに再審等を認め、もつぱらその不服申立て等の手続によつてのみ当該裁判の適否を最終的に確定し、他の手続においてこれを判断することを許さない建前を採用していると解されるから、かような裁判制度の特質にかんがみると、前記のごとく、第一、二審裁判所において有罪判決があつた後、最高裁判所において原判決を破毀し無罪の判決がなされこれが確定した場合においては、第一、二審裁判所の各有罪判決は本件国家賠償請求訴訟においてその誤判であるか否かを審理することなく、いずれも国家賠償法上当然に違法な行為と解するを相当とする。
この点につき、被告は、上級審裁判所と下級審裁判所と判断を異にするときは現行の法律制度上、上級審裁判所の判断によることにするだけで、そのことゆえに直ちに下級審裁判所の判断が違法となるのではない旨を主張する。しかし、訴訟は本来仮設的性格をもつから、訴訟上はともかくとして、国家賠償法上裁判官の裁判が違法であるとの評価は、全訴訟手続を事後的にみて、当該裁判が結局客観的に正当性を有しない(国家は無罪たるべき者に対し有罪判決をする権利はない)ことを意味するから、上級審において無罪とされ、その判決が確定した以上、国家賠償法上は、これに反する下級審の有罪判決はいずれも違法であると解するのが相当であるというべきである。
二 故意又は過失の有無
1 第一、二審裁判所が、原告および山本勝を有罪と認定したのは、それぞれ別紙判決目録(一)(二)記載の判決末尾の各証拠によつたものであることは当事者間に争いがない。また、右争いのない事実および成立に争いのない(証拠省略)によれば、原告および山本勝が、昭和二一年八月三〇日東京刑事地方裁判所において、予審判事の訊問に際し、それぞれ被疑事実を続み聞かされ、原告において、「その通り全部相違ありませぬ。私達は夜這に行つて強姦したのでありますが強姦の際喉笛を絞めたため石野ヨメが死んで了いました。」と述べ、山本勝において、「その通り全部相違ありませぬ。私達は石野ヨメの処に夜這に行き強姦したのであります。小崎は二回私は一回強姦しました。同女を殺す心算はなかつたのでありますが声を立てられない為に喉笛を絞めその為同女が死んで了いました。」と述べたこと、原告が同年九月六日検事に対し別紙判決目録(一)記載のとおり詳細に犯行の模様を自白し、山本が、同年九月七日検事に対し、また、同月二一日、同年一二月一八日の二回にわたり予審判事に対し、いずれも別紙判決目録(一)記載のとおり詳細に犯行模様を自白したこと、そして第一、二審裁判所が有罪認定の証拠として掲げたもののうちこれら自白調書以外のものは、いずれも原告らの情状に関するものもしくはこれらの真実性を裏付けるいわゆる補強証拠にすぎず、したがつてこれらの自白がその任意性に疑があつて証拠として採用できないか、もしくは信憑性の乏しいものであるならば、原告および山本勝を有罪とすることができなかつたことが認められ、これに反する証拠はない。そうしてみると、第一、二審裁判所の有罪判決の故意又は過失の有無は、結局、第一、二審裁判所が原告および山本勝の右各自由(以下それぞれ「原告の本件自由」、「山本の本件自白」という。)の任意性、信憑性を認め、これを証拠として採用し有罪認定の資料としたことに故意又は過失があつたか否かに帰する。
被告は、最高裁判決は証拠法則として原告の本件自白の任意性に疑があることを指摘しているが、本件八丈島老女殺し事件は旧刑事訴訟法事件で現行の刑事訴訟法三一九条一項の規定の適用はなく、しかもその適用のある日本国憲法施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律(昭和二三年五月五日施行、以下「応急措置法」という。)には自白の任意性に疑のある場合について規定を設けていなかつたので、自白の任意性に疑があることだけで証拠能力を有しないとなしうるか否かは当時解釈上明らかでなかつたのであるから、原告の本件自白の任意性に疑があることを前提として、第一、二審裁判所の過失の有無を論ずるのは相当でない旨主張するので、案ずるに、本件八丈島老女殺し事件が第一審裁判所に係属中応急措置法が施行され、ついで第二審裁判所に係属中に現行の刑事訴訟法が施行されたが、刑事訴訟法施行法二条により、第一、二審裁判所とも旧刑事訴訟法および応急措置法に従つて判断されたことならびに応急措置法一〇条二項は「強制、拷問もしくは脅迫による自白または不当に長く抑留もしくは拘禁された後の自白はこれを証拠することができない。」と規定するのみで、その他の自白の任意性に疑がある場合について規定を設けていなかつたことは被告の主張するとおりであるが、そもそも自白の任意性に疑がある場合には証拠能力がない旨の現行の刑事訴訟の規定(同法三一九条一項)は憲法三八条の解釈上当然なことを注意的に明らかにしたものにすぎないのであるから、上記のように応急措置法が右憲法の規定と同旨の規定を設けていた以上、たとえ明文をもつて規定されていなくとも、当然に自白の任意性に疑がある場合には証拠能力を有しないと解すべきであつたと云うべきである。
2 ところで、自白の任意性、信憑性の認定というがごとき裁判における純粋思惟の作用については注意義務の一般的基準を定立することは著しく困難である。けだし、刑事訴訟上、裁判官は将来にわたつて認識されうる証人調書の記載のごときものにとどまらず、将来に残らないもの、たとえば公判延における証人、被告人の態度等も右認定の資料としうるし、また、証拠の数量がいかに多くともこれをことごとく排斥し、わずかな反対証拠を採用することも可能とされているからである。しかし、そうであるからといつて、右認定について裁判官の過失を論ずる余地はないというべきではない。したがつて、結局、法は裁判官の資格を厳定し、原則として、その資格を有する者の自由な認定に委ね、ただ第三者が客観的に評価しうる範囲すなわち、その判断が経験則、採証の原則を著しく逸脱したと認められる場合、いいかえると、通常の裁判官であれば当時の資料および状況の下において、その任意性、信憑性を認めるようなことは決してなかつたであろうと考えられる場合に限り、かかる認定をした裁判官に過失を認める建前であると解するのが相当とする。
3 よつて、右の観点に立つて、第一、二審裁判所が原告らの本件自白に任意性、信憑性を認めたことに故意又は過失があつたか否かを検討する。
(一)成立に争いのない(証拠省略)の結果によれば、つぎの事実がそれぞれ認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
(原告らの本件自白の経緯)
原告と山本勝は、昭和二一年七月六日あいついで八丈島警察署に連行され、留置されたまゝ、原告は同月二三日まで、山本は同月三一日まで、取調べを受け、原告に対しては一二回、山本勝に対しては六回にわたり聴取書が作成されたが、その聴取書によると原告はその第一、二回において自己の単独犯行であると、第三回以降において山本との共同犯行であると認め、また、山本勝は第一回以后原告との共同犯行を認めていたこと、原告に対しては同月二四日以降、山本に対しては八月一日以降、取調べがなされず、令状によらない留置がそのまゝ続けられたが、同月二九日、原告および山本はともに身柄を警視庁本庁に移されたこと、同日、田中良人検事は東京刑事地方裁判所予審判事に対し原告および山本勝の強制処分による訊問と勾留を請求し、翌三〇日、予審判事は勾留訊問を行つたうえ勾留状を発し、原告および山本勝を勾留したが、右勾留訊問に際して原告および山本勝はいずれも、共同して犯行をなした旨認めたこと、原告は、同年九月六日検事田中良人に対し別紙判決目録(一)記載のとおり詳細に犯行の模様を自白したが、同年九月二〇日、一二月一〇日それぞれ予審判事に対して犯行を否認し、以来第一、二審の公判を通じて犯行を否認したこと、山本勝は、同年九月七日検事田中良人に対し別紙判決目録(一)記載のとおり詳細に犯行を自白し、予審判事に対しては同年九月二一日第一回の訊問では否認し、一〇月三〇日には自白し、一二月七日、一二月一一日には否認し一二月一一日保釈になつた後一二月一八日にもさらに自白した。
(原告の本件自白の任意性を疑わせる事実)
原告は、予審および第一、二審を通じ公判廷において「八丈島警察署では、昭和二一年七月六日朝連行されてから、武道場に連れて行かれ、後ろ手に縛られて坐らされ、午後三時頃まで大鹿、峰岸両巡査から調べられた。渡部、内田両警察官もまわりにいた。大鹿、峰岸両巡査は、お前はヨメ婆さんを強姦して殺したろう、皆わかつているのだから白状しろといつて、かわるがわる自分のふくらはぎを素足で蹴つたり、突きころばしたり、手掌で頬を殴つたり、拳固で頭を殴つたりして拷問したが、その日は、兎に角否認しとおした。ところが、渡部警察官の聴取書は七月六日付で二通ある。それによると、自分が同日自白したように記載されているが、それらはいずれも同月八日に述べたことで、聴取書も六日に作成されたものではない。八日は、朝二、三時間と午後は二、三時頃から九時頃まで、六日のときと同様、武道場で後ろ手に縛られて坐らせられ、大鹿、峰岸両巡査から調べられた。渡部、内田両警察官は、そのときも自分のまわりにいた。それで、どうしても白状しなければ警視庁へ連れて行つて電気仕掛で痛い目をさせながら調べるといつて、白状しろと蹴つたり殴つたりした。自分は大鹿、峰岸両巡査に打たれて倒れ、ころげまわつて逃げたが、そのとき着ていた襯衣とズボン(昭和二三年押第一一五八号の六、七)が破れ裂けた。渡部主任も靴で自分の頭を蹴つた。それで自分は、とてもこれではたまらないから、丁度、その日の午後署長が来て立会つたので、署長に自分を犯人にしてくれといつた。そのようにいつた意味は、最初自分は潔白であり無罪だと思い、そのことをいつたが取り上げてもらえず、拷問で殺されるのではないかと心配し、自分が犯人として述べれば、この心配も避けられると考えたからである。ところが、署長は何で犯人になりたいのか、そのわけをいえといい、これに対して答えないでいると、また攻められたので、これ以上打たれたり蹴られたりしては身体がもたないと思い、聴取書に書いてあるように身に覚えのない嘘の自白をしたのである。自分は、その日の拷問で両股が青くなつて硬くなり、痛いので動けなくなつた。留置場へ帰るのに歩くことができず、巡査に背負われて留置場へほうり込まれたほどである。その後、八丈島警察署での五〇余日にわたる留置生活から身柄を東京に送られ、八月二九日警視庁に留置されて一泊したが、そのとき朝鮮人の同房者から何んで此処に来たかと聞かれ、本当のことを云つて否認すると、また打たれるとおそろしいので、八丈島警察署で云つたとおり云えば間違いないと思い、そのように云つた。その翌日(八月三〇日)予審判事から取り調べられたときも、またその数日後、検事局で検事から取り調べられたときも、島で拷問された恐怖が加つていて心にもない自白をしたのである」旨述べた。
第一、二審裁判所において顕出された証拠のうちに右の原告の主張を裏付ける証拠として、証人峰岸演治に対する予審判事の第二回訊問調書中、同証人の供述として「七月六日山本勝を署長官舎で調べた結果、大体同人が小崎勇と共謀して石野ヨメを強姦し死に至らしめたという心証を得たので、午后四時頃から小崎を署の道場で約二時間にわたり調べた。その際、横ビンタを喰わしたことはあるが、太股を踏んだようなことはない。その翌日か翌々日も、再び同人を道場に入れて調べた。この時も、横ビンタを喰わしたにとどまり太股を蹴つたことはない。右二回にわたつて、同人を道場に坐らせ両手を後ろ手で縛つたことは間違いない」旨の記載、証人大鹿春仁に対する予審判事の第二回訊問調書中、同証人の共述として、「七月六日山本勝を署長官舎で調べた結果、署長はじめ取調に当つた者は大体小崎、山本の両名が石野ヨメを強姦して死に至らしめたという心証を得たので、午后三時過頃から署の道場で小崎を調べた。署には調室の設備がないので道場を用いたのであるが、逃亡を防ぐため後手に縛り坐らせた。その時、私も峰岸部長も、手で小崎にビンタを喰わしたり、胸を押したようなことはあるが、太股を蹴つたようなことはない。お示しの襯衣及びズボン(昭和二一年押第五三一号ノ六、七)は、はつきりした記憶はないが、小崎が着ていたものに間違いないと思う」旨の記載、証人奥山憲に対する予審判事、第一審裁判所および第二審受命判事の各訊問調書中、同証人の供述として、「私は、その日(七月六日)朝、警察署の留置場の前の廊下を掃除していると、小崎勇が連れて来られて道場で調べを受けた。その時は静かであつたが、午後三時過ぎ、私が署の上の方に在る自分の家に帰り、間もなく署の方に降りて来たとき、道場からワーワーと隣り近所にも聞えるような子供のような大きな声が聞えて来た。私は、その声が気持が悪かつたので、午后四時少し前に家に帰つた」旨の記載、証人奥山武道に対する第一審判所及び第二審受命判事の各訊問調書中、同証人の供述として、「私が山へ行つての帰りに、警察の演武場の横を通つたら、人の泣声がしたので立ちどまつたことがある。それは、その日の朝小崎が引張られて行つたたし、小崎の声に似ていた」旨の記載、さらに、証人菊池ハルカに対する第一審裁判所および第二審受命判事の各訊問調書中、同証人の供述として、「私の住居は、警察署の通用門と向いの道をへだてたところにある。夏頃(昭和二一年)署の武道場の方から怒鳴り声と違う苦しさの余りに出た声を聞いたことがある。私は変だと思い、外に出てみた。すると、小崎という声を聞いた」旨の記載が各存在していた。
(原告の本件自白の信憑性を疑わせる事実)
第一、二審裁判所に明らかであつた事実として、昭和二一年四月六日本件変死体発見と同時に、医師野村正治による死体の検案が行われ、「変死体検案書」が作成されたが、その変死体検案書には死亡推定日時欄に当初「昭和二一年四月四日午後一〇時(推定)」との記載がなされ、その「四日」が、後に「三日」に訂正されているが、右訂正の事情について、証人野村正治に対する予審判事訊問調書中、同人の供述として、「野村医師は、はじめ死亡推定日を四月四日と推定してその旨記載した検案書を八丈島警察署に提出したが、八丈島警察署では、死亡推定日を「三日」に訂正してもらいたい旨申出をし、同医ととしても「四日」という自信がなかつたので、右申出のとおり訂正した旨の記載があること、右推定の根拠は、浅沼コツルおよび浅沼梅子の昭和二一年四月七日付司法警察官渡部定義の聴取書によると、被害者の死体発見者であり、かつ近隣に居住する浅沼コツル(母)及び同梅子(娘)の両名が死体発見の翌日(四月七日)渡辺捜査主任の取調に対して、「四月三日には、午後六時頃梅子が被害者方に豆腐の味噌汁を夕食用に持つて行つたが、そのとき、被害者に対して話相手に来てもらいたいと頼んでおいたので被害者の来るのを待つていたところ、その晩、被害者は遂に来なかつたこと、被害者は右両名方には毎晩のように見えていたことであるし三日の晩は右のように特に来てくれるよう頼んでおいたのであるから、身体の具合が悪いとか何か事情がなければ、当然遊びに来る筈だと思うこと、翌日の四日は朝からひどい雨であつたが、その日も被害者は全然見えなかつた」旨の供述によるものであること、右のような経緯によつて昭和二一年四月三日夜の犯行と想定され、したがつて、捜査も右想定のもとに推進され、被害者方出入関係者、菊地次平、山下宰平および雑賀秋男等のアリバイ関係の調査も、右の想定された犯行日時における動静の範囲に限られ、結局、同人等は本件に関係がないものとして釈放されたこと、そこで被告人両名が同年七月六日相前後して検挙され、被告人両名に対する取調べもまた、右犯行日時の想定のもとに行なわれたのであつて、このことは、被告人両名に対する司法警察官渡辺定義の各聴取書に徴して容易に看取されるところであつたこと、ところが浅沼コツル、同梅子に対する七月一五日付司法警察官渡辺定義の各聴取書によれば、「浅沼コツルの長女(高橋フサ子)が四日朝、塩の配給が延びたことを知らせにヨメ方に寄つたところ、ヨメは三畳の間で鉢巻をして糸繋ぎをしていた」事実が明らかにされたこと、そのため、本件犯行の日が三日夜という想定から四日夜という想定に変更され、その想定のもとに、その後における被告人らの取調べが行なわれ、被告人小崎もこれに応じ七月一五日前は三日の犯行であると述べ、その後は四日の犯行と述べていること、検事および予審判事に対する原告の本件自白も警察における自白とほゞ同旨のものであるという事実がそれぞれ存在していた。
(原告の本件自白の任意性、信憑性を肯定しうる事実)
しかしながら、他方、第一、二審裁判所に顕出されていた証拠のうちには、原告の本件自白の任意性、信憑性を肯定しうるつぎのようなものがあつた。すなわち、原告の本件自白は、原告が直接強制を加えられたという八丈島警察署ではなく、身柄が東京へ移されてから後のことであり、八丈島警察署で取調べを受け終つてから一ヵ月以上の日数を経過した後なされたものであること、原告自身も東京へ行つたら本当のことが分かると期待していたにかかわらず、本件自白をし、しかも第一、二審裁判所を通じ、予審判事、検事から直接強制を加えられていないことを認め、第一審裁判所では「検事からどなられたことはない」と述べていること、また、第二審裁判所においても「検事や判事が巡査でない事は判りましたか」と尋ねられたのに対し「それは判りました」と述べていること、さらに、第一審裁判所における訊問に際し、はじめ検事の取調べのとき、「渡部司法主任が立会いました」と述べながら、後には「よく考えてみますとそれは渡部主任ではなく護送の巡査でした。」と述べたりしてその供述態度が不明確であつたこと、浅沼コツルに対する第一審訊問調書中、同人の供述として、「私の母は小崎勇の祖母と姉妹ですから私と勇の母シユンとは従姉妹の関係にあり東京から来た峰岸刑事が毎日の様に私方に来て私が忙しく仕事して居るのにしつこく色々聞かれたのでその時私は小崎勇がヨメ婆さん方に行つたことがありヨメ婆さんは私に勇は若いのに帰らず泊めてくれと言つたので泊めたがしつこくて嫌な奴で困つたと話した事や或時は泊めてくれと言つたが泊めなかつたことがあるのでこれ等のことを打明けました。その後小崎勇が私方へ来たとき同人はヨメ婆さんに百円香奠をやると云うので私は親類でもなく若いくせに遣ることはないと云つてやめさせました。私としては百円もの金を出そうとしたのでその時どうしてそんな金を出そうとするのかと不思議に思いました。それから私の五男義道方で勇がヨメ婆さんは何故死んだのだろうと言いましたので私が自殺だろうと言う意味の事を言いますと勇はどうかそうして置いてくれそう言はないと自分が調べられて困ると言いました」旨の記載、証人浅沼チヨ子に対する第一審訊問調書中、同人の供述として、「石野ヨメが殺された事件について小崎勇が私に私方附近に復員軍人風の変な男が徘徊していたのを見たと云うことを聞いた旨警察官に話したことがあつて私は内田巡査部長に聞かれましたが左様な事実はなく私が言つた事実もないので残念に思い勇を呼寄せて糾した処それは警察の人にも言はなかつたと申しました。右復員軍人云々の事は刑事が調べに来て初めて知つたのですがその後勇が東京へ行つた後同人の母が私方へ来て復員軍人のことで迷惑をかけてすまなかつたと謝りましたのでこごん事してこまろうじやと言いました」旨の記載、証人浅沼憲に対する第一審訊問調書中、同人の供述として、「私は小崎勇から誰が警察に検挙されたかと聞かれたことはありませんが同人が私方へ来たとき私の方で何気なく同人に雑賀が挙つて居ると言つた処小崎は雑賀だ雑賀だとそれは大きな声で言いましたので私は小崎にそんなことを言うと警察に言つてやると冗談に申しました」旨の記載、証人李金山に対する予審訊問調書中、同人の供述として、「私は昭和二一年八月頃警視庁の監房に居り最も古い関係から総監房長をして居りましたが誰からともなく八丈島の老婆殺しの犯人が入つて来たと云う噂が耳に入つたので第九号房に立寄り窓の外から犯人を呼び出し尋ねたところ、八丈島で老婆を殺したいいました」旨の記載がそれぞれ存在していた。
(山本の本件自白の信憑性を疑わせる事実)
山本勝が本件自白が真実でないとして述べたことは、第一、二審を通じて首尾一貫しないところもあるが、要約すると「八丈島警察署で、七月六日午後検挙されたときは、自分方へ大鹿刑事、内田部長が来て鰹節工場に連れて行かれ大鹿刑事から石野婆さんを殺しただろうといわれ、自分は殺したことがないので殺さないといつたところ、同刑事がわからぬ奴だといつたら、自分はなおもやらないといつたが、隠しても駄目だ、やつたといわなければ警察に連れて行くというので、警察に連れて行かれるのは恐いと思い、やつたといえば連れて行かれないと思い、馬鹿のために石野方へ行つて婆さんを殺したといつた。署に着いて、高橋、渡部、内田、大鹿、峰岸の五人の前で婆さんを殺した、小崎と一緒にやつたといつた。それから渡部主任から詳しくいえといつて頬ぺたを殴られた」、「八丈島警察署から警視庁に送られた時便所で小崎に会つたがその時小崎が私にやつていないから頑張ろうと申しました」、「身柄が東京に送られてから起訴される前に取調を受けたが、それが予審判事や検事の調べということは判らなかつた。ただ、やつたといえば島に帰してくれると思い、嘘の自白をした。又、予審第二回の調べのとき、やつたといつたのは予審判事から島に早く帰すからやつたならやつたといえといわれたからであり、その後保釈されてから予審第五回の調べのときは、否認すると島に帰れないようになると思つて嘘の自白をしたのである」と述べたこと、右自白について予審判事から命ぜられた鑑定人菊地甚一の推定書によると、「被告人山本は知能においては精神薄弱と診断するに躊躇しない。至極平穏な愚か者(低能者)である。一般に低能者の意思は個人によつて影響されやすいのが常で、殊に被告人山本のような平穏な低能者にあつては、常に意思作用に動揺性があつて、他より強制を受けることが容易に行われることも首肯できる。すなわち、意思の被影響性が常に亢進している状態に在るといつてよい。さればこそ、自白すれば直ぐ帰宅が出来ると考えることなども、被告人らしい感情の動きで、初めは犯行を否定し、次いで自白し更に予審訊問に際して否認したが、再転して自白をするなど変転定まりなき有様である。警察においても被告人が低能者たることは判らぬ筈はあるまいが、それを考慮せず、常人として取扱つていることは非科学的であり、刑事学的妥当性に欠けている。被告人は精神薄弱者であるため、刑事係をおそれること著しく、意思の影響を受けて自白するに至つたのではないか。このことは、あり得るところであつて、被告人の自白が強制拷問によらないで表明されても、その信憑性は薄弱だといわなければならない。」とされていること山本勝を八丈島警察署に連行した証人大鹿春仁に対する予審訊問調書中、同証人の供述として、「七月六日午後一時過、山本林市(被告人の父)方に行き、母親を遠ざけて勝を入口間際の座敷のかたわらで調べたが、場合によつては勝が勇の共犯ではないかと直感した私は、勝に対して『何もかも判つている、正直に話せば無理なことはしないのだ』と自白を促すと、勝は自白した」旨の記載、また同じく山本勝を連行した証人内田勇に対する予審訊問調書中、同証人の供述として、『七月六日午后一時か二時頃、山本林市方に行き母親に勝を呼びにやり、勝は畑から直ぐ来た。私が『御前行つたのだろう』と聞くと、勝は変な顔をした、返事せぬので更に『どうだ正直に云え、正直に云えば何んでもないのだ、云わなければ警察に引張つて行く』と申した、すると、勝は『勇と一緒に行つた、そしてやつた』と申した」との旨の記載、山本勝に対する検事の聴取書、起訴前の強制処分における予審判事の訊問調書および予審第五回訊問調書(本件自白)が同人に対する警察官の聴取における自白と全く同旨のものであるという各事実が存在していた。
(山本の自白の信憑性を肯定しうる事実)
ところが他方、第一、二審裁判所に顕出されていた証拠のうちには、山本勝の本件自白の信憑性を肯定しうるつぎのようなものがあつた。すなわち、鑑定人菊地甚一の前記鑑定書中に、「知能については、計算能力が著しく劣つているが、必ずしもそうでない部分があつて郷村、週、月日、季節、歴史的事実等の知識は相当正確であり、自己、時、周囲、場所の存在の認識は正しく、記憶力に異常はない、又意思の影響性については低脳者に通有の人の意思に牽かれるある程度の亢進性はあるとしても、病的に亢進が自由の心理を支配する程のものではないことはこれを断言しうる」旨の記載があること、山本勝は現に予審判事の面前においてそれまで訪れたことのない被害者石野ヨメ方の図面を書き、これがほぼ被害現場の検証添付図面と一致していたこと、山本勝の自白は、八丈島警察署ばかりでなく身柄を東京へ移された後検事および予審判事に対しても詳細な自白をし、なかでも山本勝に対する予審判事の第五回訊問調書における自白は、同人が前記鑑定人の鑑定を受けた後のもので(もつとも第三、四回訊問調書では否認)、予審判事も、同人の精神状況につき充分注意して訊問したと推定されること、そしてさらに、保釈された後においても自白していること、山本勝は、第二審裁判所の受命判事の訊問に答えて、「島の警察は恐しかつた。検事も叱りつけたので恐しかつた。予審判事はこわくありませんでした」旨述べていること、第一審裁判所の訊問に答えて、証人渡部定義は、山本勝が自白をした模様につき、「現場には電気があるじやないか、と捜査官が問うと、現場にはランプがありました。と正しく答えたり、現場の模様を図面に書いた」と供述し、山本勝自身も、「自白した事実のうち、ランプを使つていたとかランプがひつくり返つた、という点は考えて自発的に言つた」と述べた等の各事実が存在してていた。
(二) 以上の状況のもとにおいては、最高判決が指摘したように、原告の本件自白の任意性には疑があり、たとえ、その自白の任意性に疑がいないものと仮定しても、なお、その信憑性において疑があり、また、山本の本件自白も信憑性に乏いものというべく、第一、二審裁判所がこれらの自白の任意性、信憑性を認め、これを有罪判決の資料としたことは誤りであるというべきであるが、しかし、上記のように、原告らの本件自白の任意性、信憑性について、これを疑わせる事実を証する証拠、これを肯定しうる事実を証する証拠がそれぞれ存在する場合においては、第一、二審裁判所もこれらの各証拠を対比し慎重に検討したうえ、原告らの本件自白の任意性、信憑性を裏付ける証拠を信用し、その任意性、信憑性を認めたものと推認するにかたくないから、右認定が前示のとおり誤りであるにしても、このことをもつて直ちに、採証の法則、経験則を著しく逸脱し通常の裁判官として決してありえない判断であるというのは相当でない。したがつて、原告らの本件自白を証拠として有罪判決した第一、二審裁判所の行為に故意はもちろんのこと、なんらの過失も存しないといわなければならない。
第四結論
そうすると、原告の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく失当であるから、証人小崎千代の証言ならびに原告本人訊問の結果により認むべき原告の受けた悲惨な損害を思へば、同情を禁じえないが、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 杉本良吉 内藤正久 筧康生)
判決目録(一)
判 決
本籍並住居東京都八丈島三根村無番地
農業及漁業手伝
小崎勇
当二十四年
本籍並住居 同所
農業及漁業手伝
山本勝
当二十三年
右両名に対する住居侵入強姦致死被告事件に付当裁判所は検事大島功関興審理の上次の通り判決をする
主文
被告人小崎勇を懲役八年に同山本勝を懲役参年に各処する
但し被告人小崎勇に対し未決勾留日数中百五拾日を右本刑に算入する
訴訟費用中鑑定人菊地甚一に支給した分は被告人山本勝の負担としその他の分は被告人等の連帯負担とする
理由
被告人等は東京都八丈島三根村高等小学校を卒業後肩書自宅で家業の農業及漁業の手伝に従事していた者であるが被告人小崎勇は酒煙草を嗜み十九才の時小笠原島で女遊を覚えその後八丈島において軍隊の慰安所に遊びに行き更に昭和二一年三月頃東京都台東区車坂町八十三番地義兄高田順弘方に滞在中酌婦を買つて遊興に耽つたことがあり又被告人山本勝は性来精神発育状態に異常があり知能は低かつたけれど小崎の近くに住んでいたので同人と一緒になつて居村の娘の居る家へ屡遊びに行つたり或は女遊をしたことがあつていずれも素行が修まらず殊に小崎は遠縁に当る浅沼コツル方の所に独りで住んでいた石野よめ(当時六十六年)と二三年前から知合になり同女が年の割に美人で若く見えるところから昭和二十年一月頃には八丈島三根村川向無番地のよめ方で同女と同衾したこともあるのであるが被告人小崎勇は同山本勝を誘い右よめを強いて姦淫しようと企て茲に両名共謀の上昭和二一年四月四日午後七時三十分頃前記よめ方に侵入し同家三畳間で同女を仰向けに押倒し小崎は起き上ろうとする同女の咽喉を右手で押えつけ山本に同女の身体や足を押えさせてその場で姦淫し次に山本は小崎と替つて姦淫した後小崎は更に同女を姦淫した上有合せの真田紐(昭和二一年押第五三一号の四)で身動きしなくなつた同女の頸部を二巻して結び締め因て同女を窒息死に至らしめたものである。
なお被告人山本は右犯行当時心神耗弱の状態にあつたものである
証拠によると判示事実中冒頭の事実は被告人両名の当公廷における判示同旨の供述によりこれを認め被告人山本勝の精神状態に関する点を除しその余の事実は
一、被告人小崎勇に対する検事の聴取書中同人の供述として私は四月四日の晩ヨメ殿の家へ強姦に入つたのですがその前日決心したのです私の近所の幼な友達で山本勝が居り之とは以前ノンキで女郎買いをして話が合うのですが三日の昼過畑で同人に会つたとき東京の女郎買いの話をして私も山本も共にやりたくてたまらぬ様になつたのですそして同人に自分の知合の婆さんの所に行つてやろうではないかと云うと山本も一緒に行くというので明日の晩やる事にしました私の考えではヨメ殿は普通に関係を求めてもさせてくれぬ事は前に叱かられた事から見て十分判つていましたので山本と二人でヨメ殿を無理にねじ伏せてでもやる考えでした山本にも婆さんの所に夜這いに行こうと云つて居りますので同人も無理にでもやると思つて居たと思います四日夕食の後で七時過頃山本が迎えに来ました同人は海軍服を着て草覆を覆いて居ました私は袷に下駄覆きでした約三十分歩いて石屋の所に来ましたらそこから新墓の方に細道を曲つてヨメ殿の家の見える辺まで来て立止り私は山本にあそこの一軒家だ自分が先に入るからお前は直ぐ入れいきなり打ち伏せてやろうと云うと山本も賛成しました二人で家の外から中を覗くとヨメ殿は中でボロをいぢつて居た様でした誰も人が来て居らぬのでこの機を外さず私が小母さんと呼んで返事も待たず戸を開けて屋内に入りました山本も続いて入りましたヨメ殿は顔を上げて三畳から坐つた儘私達の方を見ました私はいきなり三畳に上り込みヨメ殿の両肩を押して仰向けに倒し起き上ろうとする同人の首を右手で押え付けましたそして上に跨り左手で同人の着物の前を拡げてから自分の物を猿又の下から出してヨメ殿の局部へ押付けて入れましたヨメ殿は私が同人の首を押える時かすれた声でやめるわー(痛いと云うこと)と云いました私は右手で喉首を押えた儘左手は同人の右腕を押えて動かぬ様にして腰を動かしたら七八回やる内気がいきました山本はその間私の右方からヨメ殿の身体や足を押えて居ました私が終るまでヨメ殿は足や身体をもだえて動かして居ました私が終り山本にやらせました私は山本がやる間首と手を押えてやり自分の足でヨメ殿の足を押えて山本にやらせました同人が気がいくまでヨメ殿の足や手が可成り動いていました山本が済んでから又私がヨメ殿に乗りかゝつて二回目をやりました二回目は一回目よりも長くかゝりましたその時はもうヨメ殿は動かぬ様になりましたので私は同人が死んで仕舞うたと思い山本に死んで仕舞つたどうしようかと相談しましたが同人が何とも云はぬので私はヨメ殿が生き返らぬ様に紐を部屋の奥から捜してその首を二巻して二三度結びましたそして首を持上げ振つて見ましたが全然抵抗がないので完全に死んで仕舞つていることが判りました私は山本にどうしようと相談しても同人が判然したことを云わぬので私は山本に提げろと云つて自分が足の方を山本が頭の方を持つて三畳の奥の壁際に運び私が外で見張をして山本に命じて死体に布団をかけさせましたそして二人で戸を閉めて引揚げましたとの旨の記載
一、被告人山本勝に対する検事の聴取書中同人の供述そして私は四月四日の晩友達の小崎勇と二人で平井石屋の横丁の一軒家に住んでいる小母さんの家に入り込んで小母さんをねぢ伏せて無理に関係しましたそれは小崎がその前の日畑で私に東京で女郎を買つて大変女にもてて面白かつた話をしたのですその後で私に知合の小母さんが新墓の側に一人で居るから二人で明晩行つて関係しようと云いました私は元小崎に連れられて島で女郎買をして面白かつたしその日も小崎が女郎買の話を面白くしたので私は関係したくなつたので明晩小崎と小母さんの家に夜這いに行く気になりましたその翌晩飯を食つてから私が小崎を誘いに寄り小母さんの家へ連れられて行きました私は海軍服に草履小崎は着物に下駄履きでした本通りを歩いて行き石屋の所で右に曲る道を折れました小崎が私に小母さんの家をあれだと教えましたそして二人で家に入つたら小母さんを直ぐねぢ伏せてやるからと云いました小崎が家の外から屋内を覗いて見ました誰も他所の人は居ない小母さんは一人で針仕事をして居ると云いました小崎が先に戸を開けて入り私も直ぐ入りました小母さんを顔を上げました小崎が小母さんを押し倒しましたそして直ぐ乗りました私は小母さんの足を押えましたランプはその時転りました屋内は真暗ではなく薄暗く見えました小崎は喉を押えて関係しました小崎が済んで私にやれと云うのでやりました私は小母さんの胸を押えてしました小母さんはまだ身体を動かして居りました小崎が私の後で又やりましたその内小母さんが死んで仕舞つたので小崎と私は部屋の奥に片付けました小母さんは小崎が喉を押したので死にましたとの旨の記載
一、被告人小崎勇に対する強制処分における予審判事の訊問調書中予審判事は強制処分請求書記載の被疑事実を読聞けたところ同被告人の供述としてその通り全部相違ありませぬ私達は夜這に行つて強姦したのでありますが殺す心算は無かつたのであります強姦の際喉笛を絞めた為石野ヨメが死んで了いましたとの旨の記載
一、被告人山本勝に対する強制処分における予審判事の訊問調書中予審判事は強制処分請求書記載の被疑事実を読聞けたところ同被告人の供述としてその通り全部相違ありませぬ私達は石野ヨメの処に夜這に行き強姦したのであります小崎は二回私は一回強姦しました同女を殺す心算はなかつたのでありますが声を立てられない為に喉笛を絞めその為同女が死んで了いましたとの旨の記載
一、浅沼コツルに対する当審訊問調書中同人が供述として私の母は小崎勇の祖母と姉妹ですから私と勇の母シユンとは従姉妹の関係にあり東京から来た峰岸刑事が毎日の様に私方に来て私が忙しく仕事をして居るのにしつこく色々聞かれたのでその時私は小崎勇がヨメ婆さん方へ行つたことがありヨメ婆さんは私に勇は若いのに帰らず泊めてくれと言つて泊めたがしつこくて嫌な奴で困つたと話した事や或時は泊めてくれと言つたが泊めなかつたと言つたことがあるのでこれ等のことを打明けましたその後小崎勇が私方へ来たとき同人はヨメ婆さんに百円香奠をやると云うので私は親類でもなく若いくせに遣ることはないと云つてやめさせました私としては百円もの金を出そうとしたのでその時どうしてそんな金を出そうとするのかと不思儀に思いましたそれから私の五男義道方で勇がヨメ婆さんは何故死んだのだろうと言いましたので私が自殺だろうという意味の事を言いますと勇はどうかそうして置いてくれそう言はないと自分が調べられて困ると言いましたとの旨の記載
一、証人浅沼チヨ子に対する当審訊問調書中同人の供述として石野ヨメが殺された事件について小崎勇が私から私方附近に復員軍人風の変な男が徘徊していたのを見たと云うことを聞いた旨警察官に話したことがあつて私は内田巡査部長に聞かれましたが左様な事実はなく私が言つたこともないので残念に思い勇を呼寄せ糾した処勇はそれは警察の人にも言はなかつたと申しました右復員軍人云々の事は刑事が調べに来て初めて知つたのですがその後勇が東京へ行つた後同人の母が私方に来て復員軍人のことで迷惑をかけてすまなかつたと謝りましたのでこごん事してこまろうじやと言いいましたとの旨の記載
一、証人浅沼憲に対する当審訊問調書中同人の供述として私は小崎勇から誰が警察に検挙されたかと聞かれたことはありませんが同人が私方へ来たとき私の方で何気なく同人に雑賀が挙つて居ると言つた処小崎は雑賀雑賀だとそれは大きな声で言いましたので私は小崎にそんなことを言うと警察に言つてやると冗談に申しましたとの旨の記載
一、証人田村義雄に対する当審訊問調書中同人の供述として昭和二十一年七月五日頃広井モヨの処へ行つたとき峰岸刑事と一緒に歩いて居ますと小崎勇が私に犯人はどうなりましたかと聞いたので私はまだ捜査中であるから捕まらないが中之郷村方面は既に捜査して居るので自分の方でもやる心算だと言いましたこの時の小崎の態度は本当にあつたのだろうかと他人事の様にして聞いて居る様に感じましたとの旨の記載
一、証人田代次子に対する当審訊問調書中同人の供述として私は石野ヨメから小崎勇のことを嫌な執拗い男だというようなことを聞いて居り勇がコツルさん方へ来たときヨメさんに煙草を一本だつたかやつていた事があり私は変だと思いましたとの旨の記載
一、証人季金山に対する予審訊問調書中同人の供述として私は昭和二十一年八月頃警視庁の監房に居り最も古い関係から総監房長をして居りましたが誰からともなく八丈島の老婆殺しの犯人が入つて来たと云う噂が耳に入つたので第九号房に立寄り窓の外から犯人を呼び出しましたその犯人は自分は島の六十幾つかになるが五十そこそこに見える綺麗な婆さんの所に今一人の男と一緒に行つた婆さんは抵抗したので紐か何かで頸を絞めた自分が関係してから別の男が関係した自分がやつている間別の男は婆さんの足を押えていたと申しましたそれからどう云う風にやつたかと実演させると同人はズボンを履いたまゝしやがんで女に乗りかゝり右手で頸を絞める風をしました以上の同人の言葉及態度には少しも不自然な様子がありませんでした私は馬鹿な事をしてはいけないと注意を与えてから別の犯人の居る第七房か八房に行き同じ様な問をすると同人も犯行を認めていたので之にも注意を与えました私が最初回答した犯人は被告人小崎勇に間違ありませぬとの旨の記載
一、証人野村正治に対する当審訊問調書中同人の供述として私は昭和二十一年四月六日本件被害者石野ヨメ方で同人の死体を検案しましたがそれは胸を拡げて腰はたくし上げてあり臀からは便が出て居り首は真田紐で結えられて居り紐の跡型がついて居りました局部は陰毛に唾液をつけた様に白くなつて居たので陰毛を切取り陰部内から脱脂綿に液を取つて置きましたが外型丈けで精液の如何等に付ては調べませんでした然し死体の格好から姦淫されたのではないかと思いました死体の欝血は覚えず鼻血が少し鼻腔から出て居りました以上の点から私は他殺と思いました死後硬直は普通十五六時間から二十時間で起りますので本死体の死亡日時を四月四日午後十時頃と推定しましたとの旨の記載
一、強制処分請求書中判示同趣旨の記載
一、強制処分における鑑定人松永英五十嵐勝爾作成の昭和二十一年七月三日附鑑定書中石野ヨメの死因は他殺で絞頸に依る窒息死である旨の記載
一、強制処分のおける鑑定人松永英五十嵐勝爾作成の同月二十五日附鑑定書中昭和二十一年押第二号(石野ヨメの腟内容を附着させた脱脂綿)には精液(形態安全な精虫)を認めますこの腟内容は血液型A型の反応を呈する旨の記載
一、鑑定人五十嵐勝爾作成の昭和二十二年一月十日附鑑定書中被告人小崎勇山本勝の血液型はいずれもA型で分泌型に属する旨の記載
一、押収に係る真田紐一本(昭和二十一年押第五三一号の四)の存在を綜合してこれを認め
被告人山本勝が本件犯行当時心神耗弱の状態にあつたことは鑑定人菊地甚一作成の鑑定書中被告人山本勝は先天性に精神発育状態に異常があり智能低下著しく精神薄弱と診断するを妥当とし犯行当時並現在に於ても軽度の精神障礙と有する者で限定責任能力者即ち法律上心神耗弱者に該当するものと思料する旨の記載
により明かであるから判示事実は全部その証明が十分である
法律によると被告人両名の判示所為中住居侵入の点は刑法第百三十条第六十条に強姦致死の点は同法第百八十一条第六十条に該当するが右は手段結果の関係にあるので同法第五十四条第一項後段第十条により重い強姦致死の刑に従い所定刑中有期懲役刑を選択しその刑期範囲内で被告人小崎勇を懲役八年に同山本勝を懲役三年に各処しなお同法第二十一条により被告人小崎勇に対し未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入することとし訴訟費用については刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条を適用し鑑定人菊地甚一に支給した分は被告人山本勝の負担その他の分は被告人等の連帯負担とし主文の通り判決をする
昭和二十三年一月二十六日
東京地方裁判所刑事第七部
裁判長 判事 脇田忠
判事 小俣義夫
判事補 小川泉
判決目録(二)
昭和二十三年(を)第二三七三号
判 決
本籍 東京都八丈島三根村無番地
住居 同都台東区東坂町八十三番地
高田順弘方
料理店手伝
小崎勇
大正十四年五月一日生
本籍並に住居
同都八丈島三根村無番地
農業及び漁業手伝
山本勝
大正十五年九月三十日生
右両名に対する各住居侵入、強姦致死被告事件につき、東京地方裁判所が昭和二十三年一月二十六日に言渡した有罪の判決に対し被告人小崎勇及び其の原審弁護人磯貝等雄、同井本台吉、同浅沼澄次、同尾中勝也並に被告人山本勝及び其の原審弁護人平松勇から夫々適法な控訴の申立があつたので当裁判所は検事池田貞二関與の上更に審理を遂げ、次のとおり判決する。
主文
被告人小崎勇を懲役八年に、被告人山本勝を懲役三年に各処する。
被告人小崎勇に対し、原審に於ける未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入する。
訴訟費用中原審鑑定人菊地甚一に支給した分は被告人山本勝の負担とし、其の余は全部被告人両名の連帯負担とする。
理由
被告人小崎勇は、東京都八丈島三根村で生れ同村高等小学校卒業後父母の膝下で家業の農業及び漁業に従事して居たが十九歳の頃陸軍軍属として約一年間小笠原島に赴いて居た際所謂慰安所で女遊びを覚え帰島后屡々附近の慰安所等で女遊びをしたりし兎角素行の修らないもの
被告人山本勝は右小崎方の近くの肩書居宅に住み居村の高等小学校卒業後家業である農業及び漁業を手伝つて居たが生来精神の発育に異常があつて智能がが低く、平素被告人小崎に伴われて女遊びをしたり島内の娘の居る家に遊びに行つたりして居たものであるところ被告人小崎は昭和二十一年三月頃足部の負傷治療のため東京都台東区車坂町の義兄高田順弘方に約二十日間滞在し、その間七、八回の多きに亘つて酌婦相手に遊興に耽り、同年四月二日帰島するや、曾で同衾したことのある石野ヨメ(明治十四年一月生)が居村川向無番地の墓地近くに独りで住み其の容貌が年令より若く見え旦美人であるところから、被告人山本を誘つて同人と右ヨメを強いて姦淫しようと企て、茲に被告人両名共謀の上同月四日頃の夜前記ヨメ方に侵入し、同家三畳間で同女を仰向けに押倒し、被告人小崎は起上ろうとする同女の咽喉部を右手で押えつけ被告人山本をして同女の足部等を押えさせ乍ら其の場で姦淫し、次で被告人山本は小崎に替つて右ヨメを姦淫し、更に被告人小崎は再度に亘つて同女を姦淫した後、有合せの真田紐(昭和二十三年押第一一五八号の四)を以て右ヨメの頸部を緊縛し、因つて同女をして間もなく窒息死に致らしめたものである。
なお被告人山本勝は右犯行当時心神耗弱の状態にあつたものである。
(証拠)
一、被告人両名のの当公廷に於ける各供述
一、被告人山本勝に対する予審第五回訊問調書中の供述記載
一、証人大鹿春仁の当公廷に於ける供述
一、証人内田勇、同浅沼良道、同田村義雄、同浅沼憲、同田代次子、同浅沼チヨコ、同野村正治、同浅沼コツルに対する当審受命判事の訊問調書中の各供述記載
一、原判決挙示の各証拠
(適用法令)
被告人両名の判示所為中住居侵入の点は刑法第百三十条、第六十条に、強姦致死の点は同法第百八十一条、第六十条に該当し、以上は手段結果の関係に在るので同法第五十四条第一項後段、第十条に則り重い強姦致死罪の刑に従い所定刑中有期懲役刑を選択し、其の刑期範囲内で被告人小崎勇を懲役八年に処し、被告人山本勝については同法第三十九条第二項、第六十八条第三項に則つて減軽を施した刑期範囲内で同被告人を懲役三年に処し、なお被告人小崎勇に対しては同法第二十一条に則り原審における未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入し、訴訟費用につき旧刑事訴訟法第二百三十七条第一項、第二百三十八条に則つて主文第三項掲記の通り其の負担を定める。
昭和二十六年六月二日
東京高等裁判所第十刑事部
裁判長 判事 稲田馨
判事 坂間孝司
判事 三宅多大